迷ったときの決断

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ロールモデルと価値観の変容

二〇二二年、二十八歳。大学院生時代の同期の結婚式に参列した。学部生の頃の友人には子どもが生まれ、就職した先の同期は庭付きの一軒家を購入した。絵に描いたような理想的なロールモデルへと歩みを進める友人たちの傍らで、ふと自分の人生観を振り返る。
教員の父親と専業主婦の母親のもとに生まれ、地方国立大学の教育学部に入学した。地元で小学校の教員になることに憧れての入学だった。年の離れた兄と姉がいることもあって、将来は今の自分の周りにいるような友人たちのような、結婚・一軒家の購入・穏やかな家庭を夢見ていた。
そんな自分にとって人生観の大きな転機となったのがアメリカへの語学留学である。ただ、その留学の目的も、もともとは「確実に小学校教員になるため」というものであった。当時は小学校で外国語活動が必修化され、新しく教科化されることも噂されており、英語ができる小学校の先生になれれば採用されやすいのではないかと考えたのである。実際、自治体によっては英語特別枠や英語資格加点などがされることもあったため、興味と実利を兼ねた留学であった。
幸か不幸か、留学は私の価値観を変容させることとなる。私の描いていた「ある地域に定住して安定した生活を営む」ロールモデル、そこをゴールとした決断の基準とする価値観はたった四ヶ月のアメリカ滞在によって、自分でも予想しなかった方向へと変わったのである。そんな滞在期間の中でも、特に自分にとって印象深い思い出を振り返りたい。
二〇一三年八月、アメリカの某大学附属の語学学校。私が二十歳の誕生日を迎えた場所であった。午前中は英語の授業を受講し、午後には課題や世界中から集まった友人との交流に勤しむ日々を送っていた。語学学校の制度として、語学交換プログラムがあり、留学生の言語や文化(私の場合は日本語)に興味のある現地の学生と留学生が交流できるような仕組みがあった。エディとはそのプログラムを通して知り合った。
エディはメキシコからの移民で、英語はもちろんスペイン語も流暢に話すことができた。看護学部の学生で、日本の文化にも興味を持っているものの、日本語の授業は履修しておらず、趣味として日本語を学んでいた。私とエディは月に二度三度会い、図書館でしゃべったり、音楽のイベントに参加したりして親睦を深めていった。
ある日の出来事である。図書館でのとりとめのない会話のなかで、私はエディに訪ねた。「学ぶべきことがたくさんあるのに、日本語も覚えていったら大変じゃないの?」―英語という実利を得るために留学をしていた当時の私にとっては率直な疑問であった。「ある地域に定住して安定した生活を営む」生活を目指す上で、蓄えは多い方が良い。アリとキリギリスのアリのように、学生時代に努力をして、社会人生活を蓄えがある状態で乗り越えたいと思っていたのだ。目的を見据える上で、他のことに時間や労力を余分なことに割くのは避けたいという心情もあった。
彼からの返答は当時の自分にとっては意外なものであった。「だって新しいことを学ぶことは楽しいことじゃない。」学ぶことは楽しい。いつの間にか自分の中から忘れ去られていた価値観だったように思う。実利を考える上で、学ぶことは誰かに対して優位性を示すためのものだったのだ。努力をして英語ができると教員採用試験で有利になる。ピアノが弾けると、直前に必死に練習をしなくても良い。教員免許だけではなく、司書教諭の資格も取得しておくと加点されるかもしれない。こういった誰かが作った基準で優位性を示すための努力はしてきたものの、そうではない学びを自分はしているのだろうか、自分に問いかけるきっかけになった。当然ながら、そのような会話の後すぐに私の価値観が変わるということはなかった。それほど単純ではなかったし、一般的に人間が変わるのもそうたやすくはないだろう。ただ、その会話を今でもはっきりと覚えているということは、自分の中にちょっとした心残りがあったのかもしれない。
それからしばらくして、帰国の日が近づいた。四ヶ月は語学の習得には不十分で、自分が思ったよりも英語を話すことができるようになったという充実感とともに、まだまだできないことがあるという枯渇感を持ちながらその日を待っていた。帰国の一週間ほど前、エディがはじめて彼の家での食事に招待してくれた。アメリカでは学生はシェアハウスをしたり寮で暮らしたりと、実家から離れて生活している人が多いものの、エディは母親と兄弟と郊外に住んでいた。エディに案内されアパートの玄関の戸を叩くと、中からエディの母親が出てきた。何と言っているのか分からない。会話がスペイン語だった。私がスペイン語を理解できないことを感じたのか、母親は英語で私に話しかけ、私たちはお互いに挨拶をすませた。そこでの食事は非常に楽しかった。これまでほとんど馴染みのなかったメキシコの家庭料理に舌鼓を打ち、会話を楽しんだ。特に印象に残っているのは、私が会話に入るときは英語で、エディと母親はスペイン語で、兄弟同士では両方の言語を混ぜながら話をしていたことである。自分もスペイン語ができたらいいな…と思った。同時に、英語でも手一杯なのにスペイン語を学ぶ余裕なんてないな…とも思った。
日本に帰国したのは二〇一四年の一月末であった。大学は二学期制で授業の履修はできない。大学近くのアパートは引き払っており、地元で数ヶ月過ごすこととなった。四月までのポッカリと空いた三ヶ月。この時間に私にはするべきことがあった。持病の治療である。予てから投薬治療をしていた持病の手術を行った。成人になってからの手術を予定していたため想定通りではあったものの、予想以上に入院生活は退屈だった。そこで始めたのがスペイン語の勉強だった。これまでの自分だったら、英語の勉強や教員採用試験に向けての何かをしていたと思う。何の理由かスペイン語の勉強をしてみたかった。将来の仕事にはつながるとは思えない。ただ、やってみたかった。今になって思えば、これが留学を通して自分の中で価値観が変容したことをあらわす出来事だったのではないか、と思う。
退院後は、「ある地域に定住して安定した生活を営むロールモデルのための学び」と「自分の興味があることを自由に楽しくする学び」の両立をしていくこととなった。大学院では、小学校英語教育を深めながら、ロシア語の勉強も行った。ロシア語を学び始めたきっかけも偶然によるものであった。スペイン語の勉強の成果として参加したいと思っていたスペイン研修プログラムが延期となり、同時期に募集をかけていたロシア研修に応募し、参加したことである。かつての自分では考えていなかった「自由な楽しい学び」を追求する自分がいた。
その結果、現在は予てからの希望とは異なり、世界中を旅しながら「自由に楽しく学ぶ」自分がいる。この話がフィクションであれば、そのような結末でも良いと思う。私が選んだのは、地元の公立学校の教員であった。本来のロールモデル、そのものの職業を選択した。そこに何か諦めや挫折があったわけではなく、学校の先生になりたかったからなった。今年、教員になって五年目を迎える。現在は小学校に勤務している。英語を毎日使うことはない。ましてやスペイン語やロシア語は触れない日のほうが多い。それでも「自由な楽しい学び」を追求することは忘れられないようで、中国語を学んだり、クラシックギターに励んだりしている。
このエッセーの結びとして、ある有名な詩と経営者のスピーチ、私自身の経験から私の価値観の変容をまとめたい。それは、目的を見据えた実利的、かつ効率的なものから、広く非連続で結果がまだ見えないものへと変わっているように感じている。直線を描くのでなく、多くの点を打ち続けているイメージである。私自身ではまだ、その多くの点がどのようにつながっていくのか、見えるようで見えない日が続いている。ただ、いつかはつながる日が来るのではないかと思っている。そう、スティーブ・ジョブズの「点と点をつなぐ」話のように。そして、高村光太郎の道程にあるように、「僕の後ろに道は出来る」と信じて、今までの自分が想像していたものとは異なる、まだ見えぬ軌跡を自分なりに描いていきたい。

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