以前リサイクルセンターで見かけた沼田泉先生の「教師の心くばり」を読みました。校長先生も経験された先生のようで、管理職としてのものの見え方を多く書かれていました。
文体も硬めで、内容も厳しめでしたが、自分が生まれる前の学校の先生の様子を考えることができました。不易という言葉にあるように変わらない部分もあるんじゃないかなという印象です。
見えないところまで気を配る
自分自身も教員として勤務していて、経験を経れば徐々に見える範囲というか、気にかけることができる部分が広がっていっているように感じています。その分仕事の範囲も広がるため、十分に昔できていたことができているかというと答えにくい部分はありますが。。。
校長などの管理職になると、「学校は安全か」という面で、クラスや学年を超えて学校全体のマネージメントをすることが必要になります。もちろん物理的に全ての校内の状況を把握することは困難であることから、うまく目と気を配っていくことが重要になります。
これは一担任でも同様のことが言えるのではないかと感じました。眼の前にいる子どもの言動を、その子の家庭の状況やそれまでの他の子どもとの関わりからも、本人自身が気づけて(見えて)いないことも含めて気づけて支えることができればと思います。
学校を支えているのは黙々と打ち込む教師
学校に勤務していると、外での活動をしていたり、校内で声が大きかったりで影響力のある教師もいます。そのような中でも黙々と自分の仕事に打ち込む教師がいて、そのような教師が学校を支えているということを忘れてはならないということが書かれていました。
外での活動をするようになると、校内のことがおざなりになってしまうこともあるかもしれません。そういったときに自分の襟を正す言葉だなと思いました。まずは自分の目の前のことに集中して、しっかりと取り組んでいきたいです。
自分の言葉でないと説得力がない
様々な通知や伝達事項を伝える際に、「こういう連絡がありました」と伝えるだけでは心に響くものにはなりません。それを自分の言葉で伝えることができるように、自分の中で一度咀嚼して、自分の言葉で伝える必要があります。
このことは教員になってから実感することが多いです。職員会議で決まったこと、校内のルールなど、「こうなっています」と伝えるだけでは、従ってもらうことはできるものの腹の底からの納得感は得られないことが多いように感じています。
同様に決まっていることを伝える場合でも、自分自身が納得して、それを自分の言葉で伝えると相手にも伝わりやすいと感じています。イメージ的には、古文の暗唱をただ読んでいるだけなのか、本当に理解して読んでいるのかの違いに近いのかなと感じています。